法話・感話

永代経法要 法話
2022.4.8|法話・感話

太田第一公園のユキヤナギが満開

 

 

「私は正しい」。争いの根はここにある。

 

 これは、あるお寺の掲示板に記されていたお言葉です。自分のことを言われているようで、ドキッとしました。また、「なるほどその通りだ」と思いました。

 

 「私が正しい」と主張するとき、それは「あなたが間違っている」ということになります。そんなつもりはなく、私の意見を分かって欲しいのだと思いながら、相手を否定してしまう時があります。日常生活をしていく上で争いになれば、その争いの元になった事実の確認をする、記憶が間違っていないかお互いに確認するなど、「正しいこと」と「間違っていること」は確かにあるのでしょう。ですから、相手の人と「正しい」、いや「間違っている」と議論することは大切なことです。しかし、その議論が、相手の人を批判し否定し、時には断罪するためになっていることがよくあるように思います。

 

 親鸞聖人は「われもひとも、良し悪しということをのみもうしあえり(私も他の人もみんな、良し(=正しい)、悪し(=間違ってる)ということばかり言い合っている」と、自身も含めて嘆き悲しんでおられます。

 でも、大切なのは、目の前の人との人間関係ですよね。目の前の人に、自分が正しく相手が間違っているという関係は、争いを招き、傷つけ合う結果となってしまいます。私たちはよく間違えます。過去に「私が正しい」と言い張ったことでも、時間がたてば、「ああ、間違っていた」ということはよくあることです。「正しい」と自己主張し合う関係よりも、間違っていたことを相手の方から教えられ、お互いを認め合う関係が結べたら、と願います。

                                      (大橋恵真師、法話レジュメより)

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